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王宮中がとうに寝静まった刻限。
まだ灯りの消えない王の執務室が気になって声をかけてみた浩瀚は、壁に凭れて床に座り込んでいる王の姿を発見して、凍りついた。
「主上!?」
いつも冷静な彼には珍しく、慌てて主に駆け寄る。肩を軽く揺すると華奢な身体がぐらりと傾ぐ。
(やはり、酷く御疲れだったのだ・・・)
御身を大切にしてほしいと周り一同が常々言ってはいるのだが、真摯な少女はつい無理を重ねてしまう。心配げに顔を曇らせた浩瀚は、
「失礼を」
律儀に一声かけて軽い身体を抱き上げた。
痕医よりまず落ち着ける所に寝かせることが先決と、回廊を渡り、出来る限り揺らさぬように心配りながら、王の私室に玉体を運ぶ。
そして。
祥瓊の心尽くしの香が漂う、女王の臥室に足を踏み入れた瞬間。
慣れた香を嗅いで思考が落ち着いたのか、女王の寝息の不自然さに気がついた。
溜息をつきながら、そっと言う。
「・・・起きていらっしゃいますか」
それは質問ではなく、確認。
「ごめん。・・・浩瀚が入ってきた時は、本当にうとうとしてたんだ・・・。運んでくれて、ありがとう」
とろりとした瞳と少しだけ眠たげな声が年相応のあどけなさを感じさせて、大層可愛らしい。上目遣いに謝罪をしてくる主に、優しく笑いかけた。
「いえ、大事が無くて良うございました」
浩瀚の笑顔に、陽子もほっとしたように笑いながら言った。
「それにしても、よく判ったな」
「いつもと違いましたので」
素直に感心する陽子の声音に、浩瀚がぽろりと本音を漏らす。
一瞬の空白があり――すっと空気が変わった。
「・・・他の者だったら、そのまま眠ってしまうつもりだったんだが」
何が、とは言わない男の応えに陽子が笑顔の艶を変え、肩を揺らし、声を殺して笑いを漏らした。
先程の眠たげな様子は、もう見られない。
「私なら、どうされると?」
臥牀に主を降ろしながら戯れにそう問うと、間近から翠の瞳が覗き込む。浩瀚は、翠玉の艶やかな輝きに、ふと漏らした一言が思いがけず大きな波紋を呼んだのを悟った。
だが・・・。
「さて?」
――それは、お前の方が
良く知っていることだろう?
口には出されない王の言葉が、脳裏に響く。
是、と答えそうになって、ありったけの精神力で以って踏みとどまった。いくら明日が休日だからといって、ここ暫く激務が続いた女王の身体に過大な負担をかける訳にいかない。あと2日もこの調子が続けば、彼女は体調を崩してしまいそうだったのだ。
「主上。私はこれにて、失礼致します」
知らず知らずに戯れを仕掛けてしまった事を後悔し、女王から目を逸らそうと背を向けた。扉のところで振り返り、女王の姿を見ないようにしながら頭を下げて拱手する。
「明日は朝議もございませんし・・・ごゆっくり御休みくださいませ」
挨拶をし、退出しようとした彼の背を、深く豊かな女王の声が、とん と叩いた。
「お疲れ様――浩瀚」
労いの言葉に続く、僅かに強められた男の名。
それは、政務の終わりの合図。――ただの、男と女に戻る時を告げる合図。
声の磁力に囚われて思わず振り返り、振り返ったことを後悔した。
少女はしどけなく横たわり、腕で体を支え上半身を起こしてこちらを見つめていた。
はだけられた官服から覗く綺麗な鎖骨。首から滑らかに続く肩の線、引き締まった腕。
身体のしなやかさを思わせる軽くそらされた背に、きゅっとくびれた腰。
官服越しでも判る脚の線の美しさ。――あまりに強過ぎる、誘惑。
楽しげな光がちらつく瞳の毅さは、抗えない魔力を秘めていて。
魅入られて立ち尽くす浩瀚を見つめながら、半身を起こしたままで、女王は長い髪を纏めていた布を静かに解く。縛りを失った髪が柔らかに落ち、華奢な肩を覆ってさらりと揺れた。浩瀚が、黒い絹と紅い髪の、鮮やかなコントラストに息を呑む。
女王が手に持った布をぴん、と指で弾くと、薄い布がふわりと舞って床に落ち、――微かな筈のその音が、やけに大きく響いた気がした。
そんな風に、まるで何てこと無いモノのように、
自分の身体を投げ出して。
その存在は、天空に輝く太陽と等しく価値あるものだと、
知っているくせに。
天女を腕に封じ込める誘惑に此の男が抗える筈が無いと、
知っているくせに。
女王の体を気遣うからこそ、
無理やり理性でねじ伏せようとしたものを・・・・・・。
男の想いを知り尽くして尚、
そうして誘いをかけるのか。
――酷い方だ――
僅かに動かした浩瀚の唇を読み取り、くすくすと楽しそうな笑いを返す。
せめてもの抵抗で、扉から動かず溜息をついてみせた。
「随分とお疲れのように、お見受け致しますが?」
「今更だ。・・・・・・少しくらい疲れが増しても、同じことだと思わない?」
一拍おいて、さり気ない調子で言葉を継ぐ。
「浩瀚は?疲れたか」
――女王の問に、男は深く深く息を吸った。
ゆっくりと臥牀に歩み寄る。
「私は・・・・・・夜更かしは慣れておりますので」
鼓動の音は徐々に高くなっても、声音はあくまでも、涼やかに。
それは、最初から明らかな結末に向って進む、予定調和の駆け引き。
女王は頬杖をついて男を見上げると、愛らしく首を傾げた。
「夜更かし?」
仕草の無邪気さとは裏腹に、嫣然と笑って問いかけてくる。
浩瀚は、殊更ゆっくりと歩み寄りながらも、圧倒的な瞳の引力に抗えない。
「それとも」
彼の言葉に、女王は無言のまま、視線で続きを促した。
細い指に挟まれて揺れる緋色の髪が、枕元の灯りに照らされて艶やかに煌く。紅い唇に寄せられる毛先の、その濡れたような輝きが、露に濡れた花園を守る緋色の叢を連想させた。
これ以上ない誘惑に、跳ね上がった鼓動が強く鼓膜を叩く。
「徹夜は慣れている と、申し上げるべきなのでしょうか?」
「さて・・・・・・」
僅かに伏せられた長い睫毛が、滑らかな頬に影を落とす。毅く澄んだ女王の瞳で、傍に立つ浩瀚を見下ろすように微笑む。きりりと持ち上げられた口の端が、却って酷く扇情的に見えた。
微かな衣擦れの音だけをさせて、浩瀚は静かに錦の布団に腰を下ろした。
真っ直ぐ見上げてくる瞳に吸い込まれるかのように、肩を抱き顔を寄せる。
触れあうぎりぎりまで唇を寄せても。
女王は誘惑の言葉を、決して口にしない。
だが、それがどれ程のことか。
彼女の瞳は、言葉より余程雄弁なのだから。
この世で最も強い引力を持つのだから。
まずは、軽く口づけを贈る。
女王が男の首筋に腕を絡めて引き寄せる。
襟を解くと、形の良い頤を仰け反らせた。天へ飛び立つ朱雀のような、しなやかで美しいラインを描く背を掻き抱き、翼の付け根を撫で摩る。
鎖骨の窪みをきつく吸うと、女王はさらに大きく背を反らし、大輪の華が綻ぶように、幸せそうに艶やかに笑った。
誇り高く美しい彼の女神は、
身体を男の下に投げ出しても、心は容易く男を組み伏せる。
いつだって、驚かされ翻弄されるのは男の方。
その望みを叶えようとあがくのは、男の方だ。
だが、だからこそ惹かれるのだと思う自分が居る。
交わりを想起させる程強く舌を絡めあい、互いに吐息を注ぎ込む。
浩瀚は、女王の望みを叶えるために、襟に手をかけ一気に上衣を剥ぎ取った。
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