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景麒を従えて執務室に戻るなり、彼の主は
「何でああ、聞く耳持たないんだっ!!!」
と大きな書卓を蹴りつけた。
鍛え抜かれた脚から繰り出される強烈な蹴りに、重い筈の書卓が僅かに揺れ、山と積まれた書類がドサドサバサっと床に落ちる。
床に散らばった書類を拾おうと腰をかがめた景麒の目の前を、陽子が怒りを漲らせながら、物凄い勢いで横切った。
華奢な体から発せられる強烈な王気に呑まれ、思わず一歩後ずさって棒立ちになった景麒の前で、
「大体、二言目には『主上は胎果であらせられるから・・・』って!」
と言いつつ右に行き、
「『こちらのことがお判りでないのですね』とか言ってさっ!」
くるりっ!と振り向き、今度は左へ歩く。
「皆が教えてくれるんだから判ってるってーの!そのうえで言ってるってのに、あの、判らずやの頑固親父っ!」
景麒に口を挟む隙も与えずに、据わった瞳で呟きながら、主はひたすら歩き回る。
「そんなこと言ったら、いつまでも何も変わらないじゃないか!・・・いい国を作るにはそれじゃダメだって・・・常識に拘ってちゃ先に進めないって・・・」
不意に声が消えたと思うと立ち止まり、景麒がほっと息をついたのもつかの間、
「いつも言ってるのにっ!!」
床を蹴りつけながらの叫びとともに、業火のような王気が噴出した。
景麒は思わず三歩下がり・・・・・・
そして主は再び、ぶつぶつ呟きながら歩き回る。
無意識のうちに書類を避けて歩くのは流石だと感心しつつ、無表情の仮面の下で、景麒は途方に暮れていた。
――自分は、どうするべきなのだろう――
これが隣邦の王や麒麟ならば。
ああ見えても治世500年の貫禄で、王の怒りを包み込み、宥めることができるだろう。
また、主の友人である女史や女御ならば。
心を痛める友人のために、ともに怒ってやることであろう。
さらに、冢宰や太師、遠い雁に居る親友ならば。
事情に応じて、時に同調し時に諌めつつ、巧みに主を落ち着かせ、解決策の一案など提示してみせさえするだろう。
だが、振り返って自分の場合は。
こういう時、かつては至って常識的な正論を奏上し、主の怒りに火を注いだものだが、主も自分も成長し、主の想いや真摯さが判る今となっては。
『主の心を更に傷つけるようなことはしたくない』という思いが先に立ち、口下手な自分には、何をどう言ったらいいものか、逆にさっぱり判らないのだ。
炎の如く燃え立つ主の美しさに見惚れつつ、壁際で固まったままぐるぐると思い悩む景麒の前で、相も変わらず主はぶつぶつ呟きながら、行ったり来たりを繰り返す。
「あの頑固親父め・・・どうやったら納得させられるんだ・・・」
ところが。
そのうちに、歩調が少しずつ緩やかになり、
呟く語調も穏やかになり・・・・・・
ぴたり、と足を止めた。
驚いて目を瞬かせた景麒を突如振り向くと、主はにっこり笑って言った。
「お前が黙って見守ってくれてた御蔭で、何だか落ち着いたよ。ありがとう」
「は、はあ・・・」
間の抜けた呟きを返した景麒に、ぺろり、と愛らしく舌を出し
「ごめんね、煩くして」
きまり悪そうに苦笑する。景麒は思わず、
「い、いえ!」
と力んで答えた。
景麒の言葉に暖かく微笑み返し、
「あーあ、散らかしちゃった」
と肩を竦めて書類を拾おうとした陽子に、扉の外から
「主上、桂桂様が、お会いしたいそうです」
と声がかけられ、陽子が驚いたように振り向いた。
「桂桂が?」
「はい。堂室でお待ちいただいてますが、今からお取次ぎして宜しいですか?」
「こっちに来るなんて珍しいな。どうしたんだろう」
陽子は心配そうに眉を顰めたが、景麒は小さく微笑を漏らした。
先程、怒りに燃えて回廊を歩いていた主を、木陰から見つめていた小さな影。
おそらく、主の弟代わりの少年は、嫌な思いをした陽子を気遣って慰めに来たのだろう。
「ここは私が片づけますので、どうぞ行かれてください」
陽子が小首を傾げて
「でも・・・・・・」
と戸惑った声をあげた。自分でした事なのだから、自分で片づけたいのだろう。
景麒は穏やかに聞えるよう努めながら、重ねて言った。
「ここはすぐに終わりますから。急用かもしれませんよ。行ってあげてください」
陽子は珍しく柔らかな景麒の物言いに大きな瞳をぱちくりさせたものの、
「う、うん。ありがとう。ごめんね、景麒」
と言い残して身を翻すと、扉の向こうへ消えていった。
静けさを取り戻した執務室で、一人書類を拾いながら。
景麒はいつしか微笑んでいた。
自分もまた、主の心を慰めることができるのだ、と。
やり方はそれぞれ違っても。
――守りたいのは、ただ一つ――貴女の笑顔。
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